■ファンクション評価を上げるための両ビジネスの戦略例

 本当のカジノモデルは異なる。前章のカジノモデルはパチンコとの比較をするためにギャンブルの要素だけをグラフ化した。しかし、実際のカジノでの過ごし方は1時間程度のギャンブルだけではない。日本のパチンコとカジノの大きな違いはギャンブル以外の付加価値の多さである。パチンコ同様5時間滞在したとしてランチ・ショウ・ショッピングとギャンブルの不快を消し去るかのように、快のエンターテイメントが用意されている。また、ギャンブル中もお酒や食事を楽しめる場合があり、ギャンブルの不快の合間に快が入ったり、快状態を更に押し上げるような付加価値がある。

 パチンコも付加価値を必要としてきている。現状のパチンコは遊技人口が減少しており、日本では斜陽傾向にある。これはかつて遊技人口が多かった時代から、カジノのようにギャンブル性が上昇し、利点だったゲーム性が低下したためである。パチンコは今岐路に立たされた状態である。戦略を選ぶとすれば本当のカジノモデルのように、ギャンブルの前後や合間に快のエンターテイメントを付加していく必要があると考えられる。

 一方、カジノもゲーム性を必要としている。ラスベガスのカジノは旧カジノ地から現在の栄えたカジノ地に移行したわけであるが、そこにはギャンブル以外のエンターテイメントの付加価値戦略があった。結果的に付加価値を高めた現在のカジノ地が栄えたが、今度は付加価値競争が激化し、それが経営に大きな投資を必要となる業態になった。過熱した付加価値への投資を抑えるためには、日本のパチンコにならってギャンブルにゲーム性を加えた戦略が有効と思われる。

 感情の数値化ができれば改善の戦略が組める。エンターテイメントがギャンブルのように投げ銭方式となり、使用者のファンクション評価が数値として指標化できれば、現行の提供しているエンターテイメントの価値が明確になる。価値が明確になれば、快と不快、喜怒哀楽のバランス調整ができるようになる。天才的な感性や偶然の産物でないエンターテイメント製造。かつてVEが使用者優先でモノづくりを改善してきたように、エンターテイメントも製作者の感性の創造物から論理的に確実にファンクションを達成するべく生産性を上げていかなければならない。

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■投げ銭方式をとり続けているエンターテイメント

 世の中のほとんどのエンターテイメントは投げ銭方式ではない。前例に挙げたストリートミュージシャンや、大道芸はエンターテイメントの原型であり、産業化に伴いその姿は前払いの定額方式となった。

 しかし、未だ投げ銭方式で成り立っているビジネスがある。ギャンブル業である。ギャンブルのほとんどは1ゲーム1ゲームへの投げ銭方式である。ただ大道芸のようにいいパフォーマンスへの後評価ではなく、刺激や喜びへの期待評価であるため前払いの投げ銭方式である。ファンクションの使用者の不快評価は「掛け金」として支払われ、快評価は「当たり金」として実際の数値としての評価が可能である。

 日本にはパチンコというギャンブルとゲームを融合した、エンターテイメント性の高いビジネスがある。世界のギャンブルビジネスがその射幸性を追求するうちにエンターテイメント性を失っていく中、残っているのは奇跡であり、それだけ優れたビジネスであると言える。

 図表1はパチンコの「掛け金」と「当たり金」の縦軸と、時間経過の横軸で示したグラフである。不快であれ、快であれファンクションの達成度であるため、その高さとそれに浸った時間で形成される三角形や台形の面積が感情のファンクション評価である。金額と時間を分単位で計算した総ファンクション評価は5,040,000という数字になる。

 図表2はカジノモデルによるファンクション評価。縦軸・横軸の金額と時間の概念は同じ。そして2例は同じ「軍資金3万円」と「最終的には勝ち負けなしの状態」も戻っている。パチンコとの違いは消費時間がパチンコは5時間に対して、カジノでは1時間の間の出来事である。なぜパチンコの消費時間が長いのかは、パチンコ特有の賭けレートの固定していることと、消費する金額は1時間当たり12,000円を越えないようになっているためである。このカジノモデルのファンクション評価は1,000,000であり、パチンコの5分の1になる。この5倍のファンクション評価の差が、パチンコのゲームとギャンブルを融合した故に生まれる強いエンターテイメント性の差である。

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■エンターテイメント性のファンクション達成度評価は?

 感情の揺れ動き具合を評価するのは難しい。先のシンデレラで心の揺れ動きを快と不快にファンクションを達成したようなグラフがあるが、それはあくまでも感覚的な指標であり根拠のないものである。では、シンデレラを読んだり、映画として見た後に「面白かった」というアンケートをとり、評価できるかというとそれも疑問のあるファンクション達成度である。

 エンターテイメントは結果ではなく、プロセスが重要である。最終的に「面白かった」という結果はリアルタイムの心の揺れ動きの評価ではなく、終了時に記憶として残った感想レベルの評価である。「面白さ」という最終ファンクション要求は当然あるであろうが、エンターテイメントはプロセスにおける感情の揺れ動きを使用者は期待するものである。例えば絵画や写真のようなモノ的エンターテイメントはそれでもよいが、レジャーやゲームなどプロセスに価値があるものはプロセスごとに評価されるべきである。

 それではプロセスにおける感情の動きを測定できるか?シンデレラのいじめによる不快や、王子とダンスした時の快の度合いをどうやって測定するか?確かに心拍数や脳波、脳内物質の分泌量など科学的に解明することも可能であろうが、その技術は未だ一般的ではないう上に、その精度が個体差のある感情の度合いを本当に測定できているのであろうか?

 F=Cと定義した場合、投げ銭方式であれば評価ができる。先のコスト評価を投げ銭方式で測定可能であるように、ファンクション達成度を使用者の投げ銭というコストで、使用者が評価しているのであれば評価・測定が可能である。例えば路上ミュージシャンがサックスをプレイしている時、観客はいい旋律、いいプレイに感動した時にコインを投げる。それも決まった額はなく、観客の感動度合い、つまり感情の揺れ動き度合いに合ったコインを投げる。エスティーム・ファンクションの達成度をコストで示していることになる。

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■エンターテイメント性の価値は?

 快であれ、不快であれ感情の揺れ動きが発生すれば、それは使用者が要求しているもので達成しているファンクションである。シンデレラの感情の動きでは、不快方向に向いた感情と快方向に向いた感情の動きの曲線と平常心のラインで形成される面積が達成された効用つまりファンクションである。

 価値を導くためのコストはどうなのか?シンデレラが映画だった場合、その映画に支払った料金がコストであるだろうか?1本の映画を通して得られたファンクションが感情の動きの総面積として料金で割れば価値は導かれるのか?だとすると使用者の感想の差が出るのはどうなのか?家や車のようにモノの効用に対して、サービスやエンターテイメントのようなコトの効用は評価のバラつきが大きい。

 定額方式では使用者のコストとしての評価は得られない。映画もレジャーランドも本も、その時間だったり、機能だったり、材質にかかる費用がベースになり、エスティーム価値に対する代金は相場的に決定されたものであり、顧客の満足度を完全に反映したものとは言えない。まったく使用者の感情が揺れ動かず、日常から離れなかった場合、使用者のファンクションは達成していないのだから代金は払うべきではないのである。

 本来エンターテイメントは「投げ銭方式」であった。古来からあるエンターテイメントである大道芸は、観客が心の揺れ動き、満足度に対して「投げ銭」を行った。この形態であればコスト=ファンクション達成度と見てF/Cで価値は導かれる。エンターテイメントが向上し、提供者が技術を向上させ、価値を上げていくには「投げ銭方式」あるいはその要素をもった使用者による満足度評価が必要であると思われる。

20年前にダウンタウン松本人志氏は単独ライブで「投げ銭方式」を採用したことがあった。コロナ禍のYOUTUBEでも投げ銭方式が試されている。この動きはエンターテイメントを提供する者が興業ではなく、純粋に自らのエンターテイメントがどれほどの価値を本当は持つのか知りたがっているからだと思われる。

 

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■立川談志曰く「業の肯定」

 人は何故不快を求めるか?先のシンデレラの哀しみや怒り、ホラー映画の恐怖やジェットコースターの危険性。人は喜びや楽しみに溢れた豊かさを求めている一方で、悲惨でグロテスクなものを欲求する。落語家である故立川談志氏はこの欲求を「業の肯定」と呼んだ。

 人は時折「業を肯定」しなければ生きれない生き物である。人は知恵を授かると共に、他者との格差や違いから生まれるストレスを抱えた。そしてそのストレスの解消法として遊びを行うようになった。豊かになるためには、まじめに実直にしなければならないのはわかっているが、ついついズボラをしたり、手を抜いたりする。そういった一見人の道を外れる行為を「業」と呼び、それは時折肯定してあげなければ生きれない。

 業の肯定は非生産的なファンクションか?この論文は精神論ではなく、あくまでエンターテイメントの生産性についての論文であるため、話をファンクショナルナル・アプローチに戻す。人が豊かさを追求するために、利便性や効果性というポジティブなファンクションだけを追求する面だけをとれば、哀しみや怒り・恐怖や危険性、グロテスクも、ずぼらも、手抜きのようなネガティブ・ファンクションは非生産的ととらえられる。製造業等の業態においては必要のない、むしろ取り除くべきファンクションかもしれない。

 ただ、エンターテイメントの価値が喜怒哀楽のふり幅ならば、業の肯定も生産性を高めるファンクションである。シンデレラの哀しみや怒りは、他者への「憐み」や「憎悪」といった本来好ましくない感情、「業」である。この「業」へのふり幅が少ないものは、最終的に得られるエスティーム・ファンクションが低いということは、エンターテイメント性の価値においては、むしろ生産性をたかめるための重要なファンクションとなる。

 

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■シンデレラの揺さぶり

 ふり幅が大きければエンターテイメント性は上がる。有名なシンデレラの話の振り方は典型的なエンターテイメントである。前半は不幸で悲しく絶望的は展開が続く。貧乏で哀しみに落とし、更に継母や兄弟たちのいじめは怒りを誘う。不快のファンクションがこれでもかと求められる。

絶望から世界一の幸福へのふり幅。魔法使いに会った時点でもまだ不安だ。魔法がかかり変身する瞬間から喜び、舞踏会での楽しみ、王子との恋の喜びと快ファンクションが続く。そして午前零時からもう一度どん底に落とし、ガラスの靴から結婚までとまさにどんでん返しで締める。

 PTAの考査の入ったシンデレラ。もしそういうものがあれば貧乏は中流に、いじめは同情に。不快のファンクションが低い状態からいくら世界一の幸福をつかんだところで子供たちは面白いと思うだろうか。大人の自分ならむしろ妬ましく終了後には不快の状態にあると思う。

 掴みは深い不快のファンクション。これがエンターテイメント性の重要要素であり、重要なプロセスの順番である。ジェットコースターでも不安を煽るだけ煽って一気に恐怖に落とし、すうっと日常に戻す。ゲームも最初は操作が下手で怒りから入り、上達するごとに喜びから楽しみに変わる。最初の不快をマイルドにしてしまうと、PTAシンデレラのように喜びを与えてもエンターテイメント欲求は満足しない。ということは使用者自ら不快のファンクションは要求しているということになる。

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■人は時に苦痛を目的とする

 水口充氏による「エンターテイメントコンピューティング研究における価値基準の枠組みの提案にあるRusselの円環モデルを使用したエンターテイメントの感情モデルによれば、エンターテイメントの感情の動きは喜怒哀楽の感情にプロットされる。一般的なディズニーランドのようなエンターテイメントは「喜」の方向に伸びる。また美術館のようなエンターテイメントは「楽」の方に伸びる。筆者はこういった一般的なエンターテイメント以外にホラー映画を例にとって、不快である「哀」や「怒」に振れ、日常に戻るエンターテイメントもあれば、ギャンブルのように「哀」「怒」に振れ、「喜」「楽」とバタフライのように浮遊するエンターテイメントもあると論じている。

 私はこの怒りや哀しみの動きに着目する。FAは生産性の改善向上を狙った技術であるため、使用者は安全性や快適性、利便性や効率性という感情においては「快」の方向に向かわせるように考えるパターンが多い。ただ、エンターテイメントの場合「不快」の方向に向かわせるようなパターンが存在する。

 つまり、使用者自ら不快を求めるファンクションがある。使用者の要求であるので「怒り」や「哀しみ」を与えてくれというエスティーム・ファンクションとも言えるが、このファンクションの特性は『一時的に向かう』だけで最終ファンクションはホラー映画のように日常に戻る、あるいはギャンブルのように喜びに変わる期待を持っている。ではなぜ、『一時的に不快に向かう』必要があるのか?

 エンターテイメント性の評価は快に向かう距離の長さではないか?例えば美術館のような「楽」をファンクションとするものは、チープな美術館は「楽」の達成度が低く、ゴージャスになれば高い。つまり、単純なエンターテイメントの価値は快に向かう距離の長さと言える。ただ、使用者も提供者もエンターテイメントにおいても生産性を求めるため、生み出されたのが『一時的に不快に向かわせて』不快地点から快地点への距離を伸ばせば、美術品のように貴重性も芸術性も高めずに容易に感情のふり幅であるエンターテイメント性を高めることができると考えたのではないだろうか。

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