■立川談志曰く「業の肯定」

 人は何故不快を求めるか?先のシンデレラの哀しみや怒り、ホラー映画の恐怖やジェットコースターの危険性。人は喜びや楽しみに溢れた豊かさを求めている一方で、悲惨でグロテスクなものを欲求する。落語家である故立川談志氏はこの欲求を「業の肯定」と呼んだ。

 人は時折「業を肯定」しなければ生きれない生き物である。人は知恵を授かると共に、他者との格差や違いから生まれるストレスを抱えた。そしてそのストレスの解消法として遊びを行うようになった。豊かになるためには、まじめに実直にしなければならないのはわかっているが、ついついズボラをしたり、手を抜いたりする。そういった一見人の道を外れる行為を「業」と呼び、それは時折肯定してあげなければ生きれない。

 業の肯定は非生産的なファンクションか?この論文は精神論ではなく、あくまでエンターテイメントの生産性についての論文であるため、話をファンクショナルナル・アプローチに戻す。人が豊かさを追求するために、利便性や効果性というポジティブなファンクションだけを追求する面だけをとれば、哀しみや怒り・恐怖や危険性、グロテスクも、ずぼらも、手抜きのようなネガティブ・ファンクションは非生産的ととらえられる。製造業等の業態においては必要のない、むしろ取り除くべきファンクションかもしれない。

 ただ、エンターテイメントの価値が喜怒哀楽のふり幅ならば、業の肯定も生産性を高めるファンクションである。シンデレラの哀しみや怒りは、他者への「憐み」や「憎悪」といった本来好ましくない感情、「業」である。この「業」へのふり幅が少ないものは、最終的に得られるエスティーム・ファンクションが低いということは、エンターテイメント性の価値においては、むしろ生産性をたかめるための重要なファンクションとなる。

 

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