■人は時に苦痛を目的とする

 水口充氏による「エンターテイメントコンピューティング研究における価値基準の枠組みの提案にあるRusselの円環モデルを使用したエンターテイメントの感情モデルによれば、エンターテイメントの感情の動きは喜怒哀楽の感情にプロットされる。一般的なディズニーランドのようなエンターテイメントは「喜」の方向に伸びる。また美術館のようなエンターテイメントは「楽」の方に伸びる。筆者はこういった一般的なエンターテイメント以外にホラー映画を例にとって、不快である「哀」や「怒」に振れ、日常に戻るエンターテイメントもあれば、ギャンブルのように「哀」「怒」に振れ、「喜」「楽」とバタフライのように浮遊するエンターテイメントもあると論じている。

 私はこの怒りや哀しみの動きに着目する。FAは生産性の改善向上を狙った技術であるため、使用者は安全性や快適性、利便性や効率性という感情においては「快」の方向に向かわせるように考えるパターンが多い。ただ、エンターテイメントの場合「不快」の方向に向かわせるようなパターンが存在する。

 つまり、使用者自ら不快を求めるファンクションがある。使用者の要求であるので「怒り」や「哀しみ」を与えてくれというエスティーム・ファンクションとも言えるが、このファンクションの特性は『一時的に向かう』だけで最終ファンクションはホラー映画のように日常に戻る、あるいはギャンブルのように喜びに変わる期待を持っている。ではなぜ、『一時的に不快に向かう』必要があるのか?

 エンターテイメント性の評価は快に向かう距離の長さではないか?例えば美術館のような「楽」をファンクションとするものは、チープな美術館は「楽」の達成度が低く、ゴージャスになれば高い。つまり、単純なエンターテイメントの価値は快に向かう距離の長さと言える。ただ、使用者も提供者もエンターテイメントにおいても生産性を求めるため、生み出されたのが『一時的に不快に向かわせて』不快地点から快地点への距離を伸ばせば、美術品のように貴重性も芸術性も高めずに容易に感情のふり幅であるエンターテイメント性を高めることができると考えたのではないだろうか。

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